映画「沈黙―サイレンス」
が、1月21日(土)封切りになります。
カトリック文学の巨匠、遠藤周作の長編小説「沈黙」を映画化したものです。
ぜひ、観に行きたいです。
遠藤周作の「沈黙」は奥が深いです。
触れるたびに、黙想へと引き戻されます。
ずいぶん前に、日曜日の礼拝の説教の中でも取り上げて、お話ししたこともあります。
その時の反響・残響も大きかったです。
先日も、ある方が震災のことや愛する人との死別など様々なことを思い巡らせつつ、(作品の映画化のことは知らずに)、改めて「沈黙」を読み返してみた、と仰る方がいました。
映画監督のマーティン・スコセッシさんも、
原作を読んでから、28年間、思いをめぐらせてきた、と予告編にありました。
そういう奥深い作品だと思います。
しかし、批判もあるということも触れておきます。
まず、本山であるカトリック教会は「遠藤は、踏み絵を正当化した!」と批判してきました。
作品の終盤・クライマックスのところで、殉教か、棄教かを迫られた祭司に対して、
「『早くふむがいい。それでいいのだ。私が存在するのは、お前たちの弱さのために、あるのだ』と、キリストの顔が言っている気がした」と、
遠藤が書いている点に問題を見ています。
要するに、そんないい加減な信仰じゃ困る!ということでしょう。
弱さの上に胡坐をかいて、いいんだよ、いいんだよ、それでいいんだよ…ってなことでは困る!
という指摘です。
確かに、そうでしょう。カトリック本山としては、その教えの大筋を保たなけりゃ、いけないですよねぇ。
でも、私が感じるところでは、この作品を読む人、聴く人、観る人の関心は、あんまりそこ(信仰上の義しさという点)には向かない、ということです。
長編小説の題も示しているように、神の「沈黙」の意味が観る人にとっての大きな主題になっているように感じます。
苦しみの渦中にいるひとりの人間の痛切な叫び―
「主よ、あなたはなぜ、黙ったままなのですか?」
私たちが耐えられないような、謎にみちた苦しみに遭う時に、神はどこにいるのか、何をしておられるのか、という悲痛な問いです。
これらの問いをめぐって、いくつもの理解と新しい示唆が生まれてくるのです。
同時に、自分の弱さやわがまま、不敬虔も覚えるはずです。
神の沈黙には、苦難を乗り越え、人間としてのまことの成長を促すものがあるのではないでしょうか。
最後に、聖書の言葉をご紹介します。
あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝〔=自分に都合のよい神崇拝〕を避けなさい。
コリント人への手紙第一 10章13、14節
私も早速映画「沈黙ーサイレンス」を見てきました。物語の舞台の長崎は私の生まれ故郷です。主人公のロドリゴは踏絵を踏んでしまうのですが、後年亡くなった時にお棺の中のロドリゴの手に妻が十字架をしのばせる場面に感動しました。ロドリゴは苦しみながらも信仰を心に強く持っていたのだと思いました。それは形にとらわれることのない信仰の本質に触れたような気がしました。主はロドリゴのそうした苦しみをご存じで共に苦しんでいてくださったのではないでしょうか。大きな神の図らいの中、全てのこと我によかざらんことはなし、汝今知らず後これを知る、という神さまの愛を感じました。
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もう行かれたのですね!
神様が私たちによいことをしてくださると、信じることができるのは、なんと幸いなことでしょうか。
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