教会をつくる信徒の神学―聖霊論的思索

教会をつくる信徒の神学―聖霊論的思索(2017年11月22日、説教塾シンポジウムにて発表)

目 次
序.
第1の問い
 私が語る言葉がどうして神の言葉になるのか
 方法論―パラディグマとして考える
第2の問い
 信徒(しろうと)は永久に聴き手なのか
 信じる者全体に働きかける霊の神学を求めて

主要参考文献

1.第一の黙想
 A.黙想に先立って―テキストを選択するのか、テキストは与えられるのか
  アンネリーゼ・カミンスキーの記述
 B.クリスティアン・メラーの神学的黙想
 C.暗記―暗記しやすい言葉、忘れ去られる言葉、暗記しにくい言葉

2.釈義
 A.釈義の機能不全の問題
 B.「聖霊の臨在の中への翻訳としての聖書釈義」
 C.釈義の実例
 D.改革者ルターの観点―言葉と共に働く霊

3.第二の黙想
 A.聴き手に通じる神学的筋道を作る
 B.ドイツ告白教会の伝統から学ぶ
 C.霊の検証
 D.小さくなって働いている霊の発見

4.説教原稿の作成
 A.秘密のうちに行われる説教原稿の作成
 B.試練(Tentatio)こそ

5.語られる説教の言葉
 A.例証:エミールブルンナー
 B.妻または夫、家族に働く霊

6.聴かれた説教の言葉
 A.忘れ去られる神の言葉の働き
B.記憶に残る神の言葉の働き
C.例証「おきなさい、さゆり、よみがえりのあさだよ」
 D.聴き手の中に留まる言葉

暫定的結び
あとがき

本文

第1の問い―私が語る言葉がどうして神の言葉になるのか
「私が語る言葉がどうして神の言葉になるのか」―説教をするようになって、私を悩ませるようになったのはこれであった。
説教は神の言葉だというが、この「私の」言葉が、どこでどうなると「神の言葉になるのか」―実に素朴な、しかし、神学的な問いであった。考えると恐ろしかった。まずは、毎週、その言葉を聴きにくる人がいる以上、私は人間として出来る限り最良の努力をなすのは当然のことであるように思えた。これが神の言葉の神学との出会いであり、説教塾との出会いとなった。
こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。(テサロニケ人への手紙第一 2章13節)
説教について語られる時、しばしば取り上げられる聖書の言葉であるが、このテキストによると、人が語る言葉が、神の言葉として聴こえたのである。私たちの間で起こるありとあらゆる出来事は、様々な要素が絡み合って起こってくる。ひとつの要因からひとつの結果が生まれてくるというような、単純な因果関係を見出せるもの〈すっぱいぶどうを食べたから子供の歯が浮く〉としては捉えられない。複数の要因が複雑に絡み合って生じるのである。ある出来事が起こるために、それを取り巻く要素すべてに相関関係があるだろうし、それを分析してみる必要がある。そして最低限のこととして、人の言葉から神の言葉に聴こえるようになるには、人ではない神が働いていることが認められなければならない。人と人との間で働いておられる神が見出され、神について語られる時である。
伝統的に、また常識的に、神と人は混じり合うことはないと考えられてきた。要するに、人は人であって神ではない。神は人ではない。神は俗なるものと区別されるからこそ、聖なるお方である。初期の公会議、すなわちニカイヤ信条からカルケドン信条に至るまでは、キリストに議論が集中した。神がどうして人間となられるのか、と言うことが問題だったのである。今では議論されることはほとんどなく、信仰者はそのことを自然に信じている。カルケドン信条にはこうある。「ふたつの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られる方である」。キリストのうちには、神性と人性は混じり合うことなくあったとされる。
神性と人性が混じり合うことがないというのは教義上の安全弁のような役割を果たすであろう。人間のうちにいとも簡単に神性を宿すようになるなことがあるとすると、すぐに教祖・教皇が生まれてくることになるだろう。また、「私は、新しい神の言葉を聞きました」といって語りだす偽預言者が後を立たなくなるだろう。
 では、逆説的に言うが、私たちは神の子ではないのだろうか?私たちが神の子であると言ったとしても非難されない。イエス・キリストを信じる者には、神は神の子となる特権をお与えになっておられる(ヨハネ1章12節)。それだけでなく、より広義において、すべての人間が神に創造された神のかたちImagoDei(創世記1章26節)としての神の子でありうるのである。そうした場合、俗なる人間のうちに某か、神に由来する遺伝子なり痕跡なり、神のかたちが我々のうちに混入しているということに他ならない。潔癖にカルケドン信条を保持するあまり、私たちが神の子であるという恵みの真理を覆い隠す必要はないだろう。
ボーレンは、霊が人間に混入するという驚くべき見解を示している。
「神が人間となられると言うすべてのキリスト論の中心的な発言は聖霊論において繰り返されることはない。言葉は肉体となられた。神は人間となられた。しかし、聖霊は肉の上に注がれた。聖霊は人間となられた。神が人間となられたように人間となられるのではない。聖霊は人間のなかに来られたのである」(ルードルフ・ボーレン『説教学』)
神は降誕において人間となられる。しかし、人間は聖霊降臨によって神となるわけではない―これは根本的な相違である。そして、これが実践神学の諸問題にとっても基本的なこととなるのである。中略・・・霊は無名である。ほとんど霊を霊として確かめることは出来ない。霊は人間的なものに混合してしまっておられるのである。霊はご自身を人間的なものに差し込むことがおできになる。ご自身を失ってしまうことさえおできになる。
実践神学のひとつの課題である説教の言葉を考えた場合にも、これを基礎として考えることが出来るだろう。私の言葉の中に、神の言葉が混じり込むのである。
 さて、私がここで取り扱おうとしているのは説教作成の過程である。すでに、聖書が今ここにおける神の言葉として語られるまでのプロセスとして、第一のテキストから第七のテキストへと変容していく。それは、「遠い昔に遠い地域で語られ、書きとめられた言葉が今ここにおいて人をとらえ、教会の群れを形成する霊的な言葉になる過程」 である。それぞれの場において、霊が人と共に働いた結果、我々の生活と言葉に突入し、巻き込み、混ざり、神の言葉として聴かれるということが起こる。霊はどのように働きかけるのか。一般に「御霊の働きです」といわれることは、人とどのような関わりにおいてなされるのか―具体的に考察されなければならない。

方法論―パラディグマとして考える
「風は思いのままに吹く」のであって、「人は風をとらえることはできない」。しかし、「その音は聞くことが出来る」。(ヨハネ3章)。
上記の言葉は、霊の働きについて語ったことばであるが、霊の働きを考えるというのは、いわば、風の音を記すようなおよそ無茶なことである。このことは、よく弁えていた方が良いと思う。人が神を捕まえること、操ることは許されていないのである。しかし、その音を聞き、いわば観察することは許されている。
ボーレンは聖霊論的思索の方法について、経験に対して自己を閉ざしてしまうことにも批判的でありながら、しかし、経験を絶対化してしまう考えにも反対している。人間が織りなす関係や構造において働く霊を問うために、多くの具体的な内容を持った諸事実から、これを問い質す、としている 。この指摘は、拙論の方法としても、倣うべきものである。つまり、聖霊の働きを考察するのは、一律に並べられるような〈シンタグマ〉的なものではなく、具体的な内容を持つ一つの事例が並べられていく〈パラディグマ〉的思考である。一つ一つの事例や体験が価値をもつ。しかし、そこから教理を作るようなことはありえない。経験を絶対化することはないが、その神と人との出来事そのものを問うことなくしては、霊について論じることは出来ないと考えた上での方法である。
この考え方に則って、神の言葉である説教が生まれてくる過程において、神の霊がどのように働いているかを事例や体験を挙げて考えていく。

第2の問い―信徒は永久に聴き手なのか
第2の問いは、第1の問いに付随している。人のなかに混じる込む霊は、教職者と信徒を分け隔てて働かれるのか。神の言葉を語らせるために、霊は教職者にしか働かず、教職者の言葉にしか混ざり込んでこないのか。
語られた神の言葉は、聴き手の内にとどまり〈第七のテキスト〉持ち運ばれ、拡散する。これが伝道の働きである。信徒は永久に聴き手のままだろうか。説教をするのは、教職と呼ばれる専門家の伝道者だけだろうか。聴き手は語り手になることもあるのではないか。ルターは、万人祭司を提唱したが、霊を受けたものは、すべて預言をするようになるので 、万人預言者であってもおかしくないのではないか。
この信徒による働きは、大いに期待されている。私は、万人が預言者となることを期待している。磨きぬかれた整えられた自信たっぷりの専門家の言葉よりも、五つの貧しい言葉であっても、信徒の現実の中で素人たちの口から神の言葉が語られ始めることを期待しているのである。これに似て、「プロテスタントの牧師たちはいつもある種の優越感をもっている」という批判は時折みられる。(心理学的に考えれば、同時にある種の劣等感を常に持っているとも言えよう。もし、そうだとしたら、神の恵みの発見によってその劣等感は取り除かれるべきである。)そのひとつが「力ある説教とは何か―H.J.クラウス説教論」である。
われわれは時には説教することもある「信徒(しろうと)」を説教補助者と呼んでいる。この名称は意味深長である。それは脅かすような仕方で、一方が専門家で、他方が止むを得ない場合の補佐であることを示唆している。ここでも支配的な職務概念のゆえに、教会員の現実に近づくすべての道がふさがれている。われわれは思い起こさなければならない。明らかに「信徒の共同体」であったし、今日でもそうであるシナゴーグ(会堂)から、原始教団は「会堂司」の任務を受け継いだのである。ユダヤ教では、シナゴーグの会堂司は礼拝の遂行に責任を負っていたが、だからと言って彼はいわゆる中心人物ではなかった。ナザレのイエスという「平信徒」に語ることを許したのは、シナゴーグの会堂司であった。原始教団では、同様の意味で監督たちは、礼拝がすべて正しく、きちんと行われることを見届ける責任を負っている人々であった。彼らは教団における諸々のカリスマを制限するためにではなく、それを呼び起こし、そしてすべてを正しく導くために登場したのである。
教会を造り伝道の働きを荷うのは信じる者すべてではないのか。それぞれに与えられた諸々の恵み(カリスマタ)のはかりに従って行うのである。確かに、礼拝の遂行にあたって責任者が必要であり、それを司る人が必要であるが、それが全部ではない。むしろ、そのような専門家のひとたちは、教会に与えられているカリスマを呼び起こし、それを正しく導くための職務である。とするならば、とらえがいあらゆる霊の働きによって、すべての信徒がより整えられたもの( )となる時に、主イエスが地上を去られたことによって来られた聖霊と共に、イエスの業より大きな業を行う道があるのではないか 。

霊の働きは専門家と素人を分けた上で、伝道の働きに赴かせているのだろうか。教師になるときに「按手」を受ける。これは所定の神学教育の課程を修了し試験に合格すると、按手を受けて教師になる。按手は伝統的な業で、新約聖書が書かれた時代から存在した。
長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。(テモテへの手紙第一 4章14節)
また、だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい。(テモテへの手紙第一5章22節)
それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(テモテへの手紙第二 1章6、7節)
手を置くのは人であるが、そのときに聖霊が働かれて賜物を頂くということが起こる―これが聖書の証言である。この記載はいずれも、牧会書簡と呼ばれる文書の中に見られるもので、按手は、元来、教職者に限られる霊の働きであったものと考えられる。したがって、神の言葉を語るのは按手を受けた教師であるという教職制度に基づく理解が、今も受け継がれている。
信じる者全体に働きかける霊の神学を求めて
 一方で専門家と素人を分けない霊の働きに基づく派遣の言葉もある。
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。(ヨハネの福音書14章12節)
これは、イエスが地上を去られ、聖霊降臨の日以降に起こることを告げている。驚くべき言葉であるが、神を信じる人間ならば神の業を行い、それも主イエスよりももっと大きな業を行うようにさせる霊の降臨を告げている。そして聖霊降臨の日の出来事は次のようにとらえられている。
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
(使徒の働き2章17,18節)
強調されてよいのは、わたしの霊はすべての人に注がれるということである。そしてその者たちは、預言をするということである。主イエスを信じる者(信者)であって、専門家だけに限定できない。ペテロたちは無学な普通の人であったにも拘らず、この日以降、神の働きに借り出され用いられたのである。教会を形成しているのは、信じる者たち全員である。教会を造るのが、教職と信徒を分けない全体に通じる神学なのである。信じる者全体に働きかける聖霊の神学もそのひとつではないか。神の言葉を語らせるために、霊は信じる者たちの言葉に対してどのように働いておられるのか。第一のテキストから第七のテキストへと変化を生む過程を例証によって考える。

主要参考文献
ルドルフ・ボーレン著『神が美しくなられるために―神学的美学としての実践神学』(教文館、2015年)
 もはや解説を必要としない、説教塾生は必読の書。
日本での翻訳出版は2015年であるが、ドイツでの生まれは古い。加藤先生が1973年に2回目に渡独したことがきっかけで生まれた。ボーレン先生のひとつの関心事は大学でなされる神学と教会で実際に通用する神学との乖離である。ドイツのアカデミズムに対する強烈な批判がなされる。我々日本の教会でも同じ課題をもつと、感じている牧師は多い。2015年2月名古屋でこの本をめぐって読書会が行われたが、この問題を指摘する人は多かった。また、2017年3月刊行の紀要「説教」に本著をめぐっての対談が収録されている。
本書の基本的な考え方は、美学と聖霊論である。哲学では後発の形而上学である美学。正統派神学の中では論じることが何となく敬遠される聖霊論。この二つを思考の主軸に据えるという驚きの書である。本の最後では、著者自身が、自らが問い論じたことを「とんでもない調子の狂った問い」と言いながら、著作を終えている。しかし、まことに刺激的な、別な言葉で言い換えると、自分の内に次々と問いを生まれさせる書物である。

クリスティアン・メラー著、加藤常昭訳『慰めの共同体・教会―説教・牧会・教会形成』(教文館、2000年)
 訳者が本著の冒頭で紹介しているが、原著タイトルは、日本語タイトルとは、少々ニュアンスがちがう。「牧会的に説教する―説教・牧会・教会共同体のパラクレーシス次元」というものである。日本語のタイトルは美しい。一方、原著タイトルは、本書の内容を精確に言い表している。つまり、この本が探求しているのは、牧会的に説教するということがどういうことであるのか、を説教の本質から始めて、牧会の局面、さらに踏み込み発展して、教会共同体において、つまり、信徒のレベルにおいて説教がなされる、神の言葉が語られるということがどのようにして起こるのか、ということを探求している。そして、興味深いのは、それがすべて「慰め」という神学的な糸によって結び合わされるように追求されていることである。
 個人的な体験を言えば、この本を手にしたのは、伝道者になりたての時であって、自分の伝道牧会に指針となり続けてきた本であった。繰り返し読む本と言うのはあまりないと思うのだが、この本は何度も読み返してきた本のひとつとなった。
 そして、紹介の必要もないかと思うが、著者のメラーは、加藤と旧知の友人である。ハイデルベルク大学の実践神学講座のルドルフ・ボーレン教授の後任であったし、ボーレン教授の葬儀も行った。また、加藤さゆり師の死に際して、弔文を送って来られた。このような神学を持つ人は、このようなに本当に人を慰めることが出来る人なのである。
特に「祈り・黙想・試練(Oratio, Meditatio, und Tentatio)という解釈学的循環における〔単数の〕み言葉から複数の〔説教の〕言葉への歩み」は、説教を行う者にとっては、何度でも、折あるごとに読み返す価値のある含蓄のある言葉であると思う。拙著の中でも、繰り返し取り上げられる。

加藤常昭『説教への道―牧師と信徒のための説教学』(日本キリスト教団出版局、2016年)
 興味深いことは牧師と信徒のための説教学とあることである。説教をすることは、牧師だけの務めではなく、牧師も信徒も共に行うべきこととして説かれている。信徒に対する配慮はあるが、講壇で説教を語るということを前提として書かれている。

1.第一の黙想
 聖書テキスト(原文)である第一のテキストから、第一の黙想といわれる短い文章が出来上がるまでの最初の黙想である。テキストと説教者との出会いである。ここは、最初の段階でありながら説教が語られるまで影響力を持つ。いわば決定的に重要な働きをなす。

A.黙想に先立って―テキストを選択するのか、テキストは与えられるのか
 第一の黙想に先立つ問題かもしれないが、第一の黙想と関係して捉えることもできるひつとの重要な問題はテキストの選択である。なぜ、そのテキストを選んだのか。そのことを決めるのは説教者である。長老会で決める教会もあるだろう。しかしそれでも、圧倒的に説教者の意向が重んじられるにちがいない。テキストを選んだ段階で、説教のメッセージは決まっている。言ってみれば、選ぶまでが重要なのである。なぜ、そのテキストが浮かび上がってくるのか。説教者と教会と神の霊における必然があるにちがいない。
 連続講解説教の場合、自動的に次週の説教箇所が与えられる。だから、人為によらないから連続講解説教にする、と言う人がある。また、やや消極的に、毎回聖書テキストを選んで何を話したらいいのかわからないから、連続講解説教にする、と言う人もあるだろう。私も、長く連続講解説教を続けてきたが、「なぜ、この時にこのテキストが!」と驚かざるを得ない、まさしく、今日この教会で聴くべき神の言葉であると説教者も教会員も痛感せざるを得ないことが起こった。説教者が選ばずとも、与えられたテキストが人に向かってくるということがある。この場合、私が選んだのではなく、霊が選んで与えられたというのがふさわしい体験となる。
 東西のドイツを隔てていたベルリンの壁が取り除かれたとき、聖書の言葉(ローズンゲン)が果たした役割について、アンネリーゼ・カミンスキーが言及している。
 その日の朝、朝食のときに、私たちは、いつものようにローズンゲン(日々の聖句)を与えられていました。またその日の聖書の学びのための言葉も与えられていました。私たちはどのような言葉を与えられて出かけたのでしょうか。まず、エレミヤ書第32章41節の言葉です。「主は言われる。私は彼らに恵みを与えることを喜びとし」。そして、ヘブライ人への手紙第2章15節でありました。「キリストは死の恐怖のために一生奴隷であった者たちを解放された」。まさにこれらの言葉が、この11月4日のために定められていたこと、これは偶然でしょうか。私にとっては偶然とは思えませんでした!私たちは、これらのみ言葉を、祝福の言葉、将来を約束して下さるみ言葉として受け止めたのです 。
 説教者が選択する場合
 「どうしてこのテキストを選んだのか」。この問いにある程度答えられたほうが、神の霊の働きに忠実であると思う。単なる思い付き、くじ引き、息詰まっていたために過去の説教の中から理由なく選んだ・・・というのは、どう考えても忠実ではない。いわば、説教者の神学的思索の結果として、テキストが浮かび上がってくるわけである。
 説教者トレーニングセミナーに参加したことのある人は覚えがあるだろう。「なぜ、このテキストを取り上げることにしたのか」について、加藤先生が毎回、驚くほど懇切丁寧に説明して下さる。それは、今の日本の教会に欠けている点であったり、福音の最も大切な点として説教者に学んで欲しいことであったり、と常に明確な説明があった。そして、それらは確かに折に適って我々が学ぶ言葉であり、語るべき言葉であった。そのことに心捉えられて、多くの塾生がそこに通い続けてきたのである。ここにも、神の霊の働きがあったはずである。これらのテキストが選ばれるまで、どのような過程をたどるのであろうか。恐らく、個人の体験から一般化することはできないし、抽象化していくことも危険である。ただ、個人の体験に注目し、参考することは許されるであろうし、役立つことであろう。
B.クリスティアン・メラーの神学的黙想
 メラー教授の下で学んでいた時に小泉先生がお書きになった文章である。
聖書の言葉を味わい、思いめぐらすことが、そのまま神学的思索となっていることに、まず感銘を受けました。
メラー教授のもとで教えられてきたのも、同じ姿勢であったと思います。メラー教授はご自分の神学的な歩みを振り返っている文章の中で、神学教育の最初の段階でE.フックスが聖書と取り組む姿勢に深い印象を受けたことを語り、「それからというもの、すぐれた神学はもちろん、そもそも霊的なことをめぐる努力が、聖書のテキストの力に気づかずに素通りしてしまい、聖書のテキストとの対話の中で、聖書が伝える経験を自分自身のものとして経験することをしない、などということは、想像することもできなくなった」と記しておられます。またその後マールブルクからチューリヒに移って師事したG.エーベリンクや、チューリヒからバーゼルまで足を伸ばしてその晩年に触れたバルトについても、彼らの生き生きとした聖書への取り組みに教えられたと語っているところに共感を覚えます。〔中略〕
脇道にそれますが、聖書の言葉による思索ということと関連して、メラー教授にいつも驚かされるのは、たくさんの聖句を暗唱しておられることです。ついでに言うと、賛美歌の歌詞もたくさん暗記しておられます。暗記し、心に蓄えられた聖書の言葉、賛美の言葉が、教授の信仰と神学を支えていると思います。
メラー教授の説教学演習においても、最初の時間に学生にやらせたことは、説教テキストの暗記でした。暗記するだけでなく、大声で暗唱させたり、二つのグループに分けて、暗記した言葉を交唱させたりしました。暗記し、さらに耳で聞くことによって、御言葉を生きた響きとして聞かせようとしておられました。メラー教授のもとで過ごすうちに、言葉は「音楽」である、ということがメラー教授にとっては、たいへん具体的なことであるのがわかってきました。教授は音楽を愛し、ピアノやギターを弾き、合唱も好んでされます。著述に行き詰まると、ピアノを弾くのだと言われたことがあります。音楽の力によって、停滞した思索を、不思議とまた先に進めることができるのだと。しかし、本を読んだり思索をしたりしている最中には、音楽をかけることもしない、とも言われました。書物の言葉そのものが固有の音楽を持っているから、他の音楽をかけると、二つの音楽がぶつかり合って、そのどちらも理解できなくなってしまう、というのです。これは、わたしにとってはまったく新しい言葉のとらえ方でした。しかし感覚としては、わかるような気がします。
メラー教授は、聖書の言葉が響きだし、心の奥にまでしみ通ることを求めておられるのだと思います。それゆえにルター訳の言葉を大切にしているのであり、またそれゆえに、説教の準備にあたって説教テキストを暗唱し、朗唱することを教えているのであろうと思います。
 これは、個人の優れた黙想のあり方を垣間見ることのできる貴重で興味をそそる記述である。霊的なものをめぐる努力は聖書テキストとの対話から生まれるということが、はっきりと語られている。メラー教授の場合、すべての神学的思索において力を発揮するのは、常に聖書の言葉を思い巡らしていること、それによって蓄えられた聖書の言葉すなわち暗記されたテキスト、そして音楽である。
 神の働きに巻き込まれるために、第一の黙想において大事な動詞として「暗記する」「思い巡らす」とに注目したい。
 「心に留め、思い巡らす」は、ルカの福音書2章18節に見られ、しばしば、黙想の原形として紹介されてきた。

 「暗記する」とは英語では、memorize も一般的だが、learn by heart という口語表現も好まれる。英米表現の中では、暗記は、頭脳だけではなく、心による学習という語感がある。暗記することで心に刻むのである。聖書の言葉を暗記することで、物理的に重たい聖書から手は離れ、テキストの持ち運びが自由になる。いつでも心の中で開かれる軽いテキストとなる。神の言葉を自分の中に取り込み、「いつでも」「どこでも」共にあるということは、霊の属性と重なる。
 今のわたしたちにとって、「いつでも」「どこでも」は、何と言ってもスマートフォンである。いつどこに行っても、スマホ片手に画面を見続けている人たちで溢れている。スマホには、聖書アプリも存在し、一般に流布している。ローズンゲンと同じように「今日の御言葉」が毎日配信され、年間通読の計画を簡単に立てられ共有することが可能である。しかし、実際にはさほど活用されていないようで、「あなたの聖書通読回数は0回です」と機械に指摘されることが不快だとSNSで発信する者もいる。さらにそれに共感が起こりもする。優れたメディア・文明の利器によって、聖書の御言葉の「いつでも」「どこでも」が実現していても、人の心の中に入らない限りは、霊はほぼ働かないであろう。
神の言葉である聖書を心に留め、思い巡らすところで、霊が私の内に混ざりこんでくる。自分の言葉であるのか、神の言葉であるのか見分けがつかないほどに、自分の心に浸透させ学習する=learn by heart ことから、「自分の中から神の言葉が語られる」ということが始まるのである。
前置きが長くなったようだが、このことはすべて第一の黙想での作業と重なり合うことである。できるだけ、早く、次週の日曜日に語る聖書テキストと向き合い、心に刻み、いつでもどこでも、思い巡らすことが可能となっていることによって、神の言葉を聴き取る自由度が増す。聖書通読や暗誦に励んでいるのは、教職者よりもむしろ信徒に多いのではなかろうか。反省させられるべきことである。
C.暗記しやすい言葉、忘れ去られる言葉、暗記しにくい言葉
 心に留めようすると、言葉は全部均一に残るわけではない。直ぐに覚えられる言葉、通り過ぎて覚えにくくすぐに忘れてしまう言葉、間違って覚えてしまう言葉。この3種類ぐらいに分けられるだろう。これらはそれぞれ、霊のしるしであろう。霊は関係性を明らかにし露にする。
 直ぐに心に残り暗記できるのは、説教者と教会に何か関係性があるからである。感銘を受けたかもしれない、驚いたかもしれない。今の世界と教会の状況と深い関わりがあるかもしれない。関係性を直ぐに見出すことができたのは、メッセージになるかもしれない。しかし、あまり性急に事を運ばない方がいいかもしれない。人と霊の見分けは実に繊細で難しいからである。続く釈義からの過程ではっきりさせることが課題であろう。
 同様に、直ぐに忘れ去られてしまうのは、前者の逆である。だからと言ってメッセージがないのではないかもしれない。説教者の心が鈍くなって分からないために、言葉が通り過ぎていくのである。これは、次の段階へ進む時に目が開かれるような思いをすることになる可能性がある。
 最後に覚えにくく、間違って覚えてしまう言葉、理解できない言葉というのがある。先のすぐに忘れてしまう言葉と重なることもあるが、自分の中で聖書の発言とはちがう理解があると、正確に覚えられないと言うことが起こる。自分の理解が先立ち、御言葉とぶつかっているのである。だから、どうしても覚えにくい。信仰の世界はすべて理解できることばかりではない。これも、次への課題となる。人の理解と聖書の言葉がぶつかっているのである。
 このように、聖書の言葉を覚えようとしたときに起こるしるしに注意して釈義に進む。

2.釈義
 信仰の専門家と素人というのが、本当にあるのか分からないが、第2の問いのところでも触れたが、それを分ける言葉は実在する。教職者と信徒である。日本語では、信徒のことを平信徒と言うことがある。ドイツ語圏では、教職は専門家、信徒は素人と言う意味である。説教作成の過程において、専門家と素人との分かれ目がもっともはっきり出るのが釈義と次の第二の黙想であろう。確かにすべては同じではない。
宗教改革以前は、ミサはすべてラテン語で行われ聖書も庶民は読むことが出来なかった。「聖書は教会の書物である」というカトリック教会の言葉はその通りであって、庶民は教会の司祭から聖書を読むことを求められなかったし、まして語る必要もなかった。聖書を読むことが出来るか否かが、二者を分けていたのである。500年前の話しである。今はどうか。プロテスタント教会の牧師の多くは、信徒に「聖書を読むように」求めるであろう。そして、伝道できるようになることを目指そうと勧めるだろう。500年前と比較すれば、誰もが祭司であり、誰もが預言者である。ルターが願った「万人祭司」は確かに500年を経た遠い異国でも実現している。長い歴史から見れば、読むことが出来るということは、特別な賜物なのである 。
専門性というのは、一度生まれると常に高度に発達し、職業化していく傾向がある。聖書の釈義もそうである。聖書を「読むことが出来る」こと自体が素晴らしいことであるのに、外国語が読めること、歴史批判が正しく加えられ学問的に「釈義」することができるという、高度な専門性を求められるようになる。
A.釈義の機能不全の問題
釈義においていかなる霊の働きがあるだろうか。それについて詳述された本など、あまり見たことがないが、学問的な神学の中に秘められている霊的な可能性がある。しかし、ボーレンによれば、釈義は閉ざされ、機能不全に陥っていると批判されている。
神学の機能不全が明確な姿を現すのは、議論と実践との間の媒介の欠如においてである。
神学的な理論形成が完成する場合、その大部分において現実を無視するということが起こっている。教会と社会を形づくっているさまざまな構造を論じることはタブー化されているように思われる。理論形成は、そのようにして実践を抽象化することによって実現する。理論形成は、それ自体が実践であるにもかかわらず、教会の日常の現実の実践を無視することによって行われる。それゆえ、理論形成は、通例、自己を再生産するだけである。その良い例が釈義という学問において起こっている。釈義は自分自身の釈義をしているのである。つまり、釈義家は、自分が解釈したものを描き出すだけであって、そのためにテキスト解釈を解釈するだけにとどまる危険の中にある。つまりテキストそのものは解釈されないままになってしまうのである。もちろん、さまざまな解釈を良く調べるということは、テキストそのものをよりよく理解するために役立つことであろう。したがって、そのような方法そのものに反論する必要はない。しかし、その実践そのものにおいて、このような方法がしばしば覆い隠されてしまっている地平がある。テキストがそこで解釈されるべき地平が覆われてしまうのである。それは、教会と社会の現実という地平である。そうなるとさまざまな解釈の解釈をするだけで満足してしまうのであって、解釈された解釈がさらに拡大され、あるいは変更を被るということによって学問的な進歩をしているように思い込んでしまう。そうすることによって導き出される結果は、神学そのものが何も生み出さない純粋さという不思議な中間世界において養われるだけのことになるのである。そうなれば、テキストそのものが発言することはない。
 本来、テキストが発言するはずである釈義において、釈義家が自分の釈義をするという閉鎖的な状況に陥っていることが強く批判されている。

B.「聖霊の臨在の中への翻訳としての聖書釈義」
このような状況に対して、本来あるべき釈義、聖書テキストが新しい別の言葉に語られなおす霊的次元としての釈義を求めて、メラーは「聖霊の臨在の中への翻訳としての聖書釈義」 という文章を書いている。
 まず、メラーは、説教とは、過去の文書である聖書テキストが現在の語りになることを前提とした上で、聖書テキストの〈現代化〉ということから論じ始める。テキストの〈現代化〉はとかく問題が多い。聖書テキストを現代に通じるように適応させてしまったり、時事問題を論じるのに適するテキストをスプリングボードのように説教者が使ってしまったりすることで、聖書テキストはいよいよ沈黙する。このようなことを踏まえて、メラーはボンヘッファーの「新約聖書のテキストを現代のものとする」という講義を用いながら、聖書テキストの〈現代化〉の命題を次のように定める。
 現在がキリストに対して要求を突きつけるのではなく、現在がキリストの要求の前に立つとき、そこに現在があるのである。神ご自身が、そのみ言葉の内にあり、現在を造っていて下さるところでこそ・・・〈現在〉の概念は、原語としても正しいものとなり、我々を歓迎して待ってくれるものとして語られる。現在は、過去からではなく、将来からも規定されて、我々のところに来る・・・このことが理解し難いものと思われる人は、まだその前提になっているものが何であるかが、しっかり捉えられていないのである。つまり、キリストが語られ、聖霊が働くところでこそ、現在であると言う前提である。このように、振り返って聖書に向かって身を向けると言うことは、キリスト者の信仰、キリスト者の希望が、振り返ってキリストの十字架に向かうと言うことと対応している。振り返ってキリストの十字架に身を向けつつ聖書テキストを解釈する者は、もはや、〈具体的な現在化〉を必要としなくなる。
非常に、大胆な命題である。メラーは聴き手に届く語りとしての〈現在化〉を究極的には求めながら、〈具体的な現在化〉を必要とはしないという命題を打ち出す。補足的に続く文章は、以下の通りである。
 私が、男、あるいは女、ナチ党員、あるいは反動、あるいはユダヤ人、あるいは他のどのような背景を持つにせよ、ひとたび、説教壇の下に座を占めるならば、み言葉に対して特別な私自身の権利があるわけではなく、要求があるわけでもありません。そうではなくて、私が男であろうと、あるいはナチであろうと、神のみ前にあっては、罪人となった不信仰者、しかも神を問い求めている者であるということ、それこそが私の真実な具体的な状況なのです。この状況は、私からすれば、説教によってこそ明らかにされ、解決されるものです。証言としてテキストが解釈され、そこでキリストご自身が発言されるならば、そこで、それまでは、男、あるいはナチ、あるいはユダヤ人として重んじられてきた者が、今はただ罪人として、召しだされた者として、恵みを受けた者として重んじられた者となるのです。教会共同体のいわゆる具体的な状況が結局のところ真剣に重んじられていないということ、そのことにこそ、神のみ前における人間の真実の状況を見る自由なまなざしを与えられるということです。
つまり、釈義の上で要となるのは、すべての人間が神のみ前で罪人となっているという状況を視野に据えることであり、釈義者は人間の真実な状況を捉えるまなざしを鋭くして、聖書テキストを語りこむ―そのための釈義であることを忘れないことである。
さらに、このような釈義においてテキストが果たす役割について、メラーは丁寧に論じている。そのようにして語られるテキストが果たす役割は「ゆるしの言葉」となる、と言う。ここまで射程をのばしながら、(つまり、自分がしようとしていることが何であるのかを弁えながら)、釈義をするのである。

C.釈義の実例
加藤先生が示してくれる釈義はいつも面白い。説教者としての釈義だ、といつも言いながら出してくださる。「これ釈義?」と言う声も時々耳にする。テキスト中の人間の姿がと立ち上がってくる。そこにははっきりとした罪人の現実とテキストが語り込もうとしていることをはっきりさせているのである。
ルカ10章25節―37節
31節
祭司はエルサレムでの務めを終えての帰途であったろうと多くのひとが推測する。そのことは記述されてはいない。務めに行く途中であったかもしれない。エリコは祭司の多く住む町であったと言われる。祭司がなぜ見て見ぬふりをしたか。ごく普通の人間として、面倒なことに関わりたくないと思ったかもしれない。疲れていたのかもしれない。急ぐ必要があったのかもしれない。主イエスはそのことを明白にしてはおられない。しかし、主イエスが、その物語に、ごく一般的にユダヤ人民衆のひとりではなく、わざわざ祭司を登場させられたのは、祭司批判の意味を込めておられたと考えるのが自然であろう。祭司を束縛するものがあったに違いない。人間の自然な感情からすれば、気の毒だと思ったかもしれない。しかし、そこで行動を起こすのをためらわすものがあった。彼が祭司であったからである。ひとつ推測できるのは、被害者が既に死んでいたと考えたかもしれないということである。死者は汚らわしいものであった。そうして祭司は死者に触れてはならなかった。神道にも同じ考えがある。死者は神社の境内に入れられない。神道の葬儀は神社の境内の外で行われる。神主は死体に触れない。こういう清さが祭儀に必要であった。あるい
は、少なくとも出血多量であり、これを助ければ、自分も血を浴びるであろう。血は汚らわしいものであり、これも祭儀執行に必要な清潔を汚すものと考えられたかもしれない。主イエスは、こういう祭儀的清潔観念を批判しておられたと見ることができる。いずれにせよ、愛の行為をしようとしなかったのである。神に仕えている者に! 主イエスが、当時のユダヤ人の会堂における神の言葉を聴く礼拝においても、苦しむ者を見ながら、そのひとの隣人になろうとせず、なることもできない祭儀を批判し続けておられたことは確かである。
32節 同じことがレビ人にも起こった。レビ人は、祭司より位置は低くても、やはり祭儀に関わる特別な人びとであった。神殿における祭儀執行に責任を持っていたのである。
ふたりについて語られている共通のことのひとつは、彼らが、それぞれに「その人を見た」ということである。観念の問題ではない。理念の問題ではない。悲惨な人間を見ている。自分たちの愛が求められている現実を見て、しかし、それを通り過ぎたのである。主イエスならば通り過ぎることなどあり得ない現実である。主イエスが至るところに、いつでも見ていた人間の悲惨を見て通り過ぎる「宗教的人間」の姿を主イエスは見ておられる。物語のなかに現実の祭司、レビ人、愛に鈍感な人物を登場させておられるのである。

 説教者がする釈義というのは、新約学者・旧約学者がする釈義以上のものとなる。テキストの中だけでなく、人々の中を霊と共に歩き回りながら行うのである。

D.改革者ルターの観点―言葉と共に働く霊
 ルターにとって、頭を悩まさなければならなかったのは、教皇のほかに、熱狂主義者たちであった。彼らは聖書をいとも巧みに引用する。しかし、それらは自分のお気に入りの考えを後押しするためのものでしかない。この問題を乗り越えるために、彼は聖書の言葉に固着し続けた。そのことを求めた。したがって彼にとって、霊的に聖書を解釈するとは「神は、あなたに、外からの言葉なしには、ご自身の霊を与えようとはなさらない」ということであった。つまり、彼において、言葉と霊は切り離されることは決してない。神ご自身をその霊によって固着させてくださっているもの、それが聖書テキスなのである。それだけに、歴史批評による釈義は、神の言葉を聴く上で決して止むことのない作業である。
 注意していただきたいが、あなたが飽きてしまうことのないようにして頂きたい。つまり、一度も二度も十分に読み、十分に聴き、口にさえ出してみて、それでも、すべてを根底まで理解しているなどとは言っていただきたくないのである。・・・聖霊がそこで何を言おうとしておられるかに熱心に目を留め、良く考えるのである。」

3.第二の黙想
A.聴き手に通じる神学的筋道を作る
 釈義を経て聖書の言わんとすることを聴き取った後に、もう一度繰り返される「第二の」黙想において大切な作業は、論理を手に入れることにある。通常、神学的な黙想と表現される。「論理的」「神学的」・・・聴いただけでも難しい気分になる。そしてこのような難しい神学をするのは、専門家だけであると考えてしまう。確かに、あの難しい黙想集を読みこなせるようになるには時間がかかるであろう。専門家の牧師であっても、十分に読めて、対話できるようになっているか定かではない。しかし、あの難解な第二の黙想があるのは、専門家と素人を分けて、専門家だけが特別な手続きを踏むことによって、特別な神の言葉を語るようにするための隔ての壁なのだろうか。まして、素人である信徒にとって必要がないものであろうか。
神学は難しい言葉を手に入れるための学問になってしまったという批判があるならば、それは悲しむべき傾向であると思う。説教の聴き手は、みな教師でもないし、哲学者でもない。毎日、忙しく働き、くたくたになって日曜日に教会堂にたどり着くのが普通である。また、今は高齢者の信徒も多い。体力的な弱さを抱えながら礼拝の席に座っているのである。難しくて分からない話に聞き耳を立てることなどありえない。そういう聴き手に届くようになる「論理」「筋道」を作ってあげるのである。それが第二の黙想の課題である。「救済論的には」と言ったからと言って、聞き手に届く神学的筋道を得たわけではない。救いの出来事が起こるところの筋道を見つけて、相手までつないで見せてこそ、第二の黙想の価値がある。筋や道はぐねぐね曲がっていたり、絡まっていたり、途中で切れていたりすると困る。黙想が十分に行われた時、その筋が通るようになる。そして聴き手とも共有できるようになるのである。
 とすると、第二の黙想もまた相手なしに行われるものではない。常に説教を一緒に聞こうと待っている聴き手を想定しながら、聖書の言葉が持つ論理を行き来することになる。牧会的な配慮が十分にこなされる段階とも言える。世と教会との関わりを無視することができない。ここで、再び著しく霊の助けを必要とすることになるのである。単純に硬直し浮世離れした難解な神学的論理を展開するのが第二の黙想ではなく、聖霊の働きと言う面から考えれば、世と教会に働く相関関係を見据えながら説教の筋道を構築するのがその特徴である。

B.ドイツ告白教会の伝統から学ぶ
 第二の黙想というのは、説教黙想の名で呼ばれることもあるドイツ語圏の教会に特有な説教準備の過程である。この黙想集を読むのは、説教塾説教 のひとつの特徴である。説教準備における、この過程の大切さを見出したのは、ナチスドイツと戦ったドイツ告白教会の牧師たちであった。その特質が本当に受け継がれ、今もこの意味における黙想が存在しているのかどうか、定かではないが、日本における説教者トレーニングセミナーでの黙想重視の傾向、そして加藤先生が意図的に行っている説教黙想アレテイアの編集・刊行がそれを引き継ぐものである。
 説教黙想の霊的な最大の特徴は、世とキリスト教会との明確な視座と地平をもって編まれているということである。筆舌に尽くしがたい厳しい戦いの中、それぞれ牧師としてのいのちをかけて認められた説教準備のための黙想である。そうならざるを得なかったとも言える。切れば血が流れるような真剣さ(Ernest)がそこにはある。あの時代、図らずとも世と向き合わなければならなかったし、その中で教会を配慮しなければならなかった。そういう環境の中で生まれてきた文書である。世界と教会という地平を無視して神の言葉を読み、神の言葉を語るということができない時代であった。したがって、この点において、黙想自体が預言者的な文章になっているのである。今ここに生きる人に、神の言葉を届ける―そこに集中した文書なのである。世と対峙している信徒こそよく理解できるという場合もあるかもしれない。
現在、これと同質の文章を手に入れることができるかというと、それは難しいかもしれない。この遺産から学び続ける価値はいまだに大きい。また、今後、これらと並ぶ文書が世に出回ることを願っている。

C.霊の検証
 聖書の中では、霊を見分けることが求められている 。新約時代に問題であったのは、キリストが神であるかと言うことであったので、キリストを告白するか否か、ということが分かれ道になっていた。しかし、今はそれだけでは済まない。分かれ道は深化している。世=デーモンであるとは言い難い。キリストが神であることは告白しても、悪魔的な行為を行う者はいくらでもある。それとは逆に、ボーレンも言うように、神を知らない人々の間で神が美しくなるための実践を行う者もいる。神的なものとデモーニッシュなものを分けるという霊の働きは実在するが、一筋縄ではいかないのである。では、デモーニッシュなものとはいかなるものであろうか。どのように分別することができるだろうか。
デモーニッシュなもの
 重ねて言うが、この定義は一義的にはできない。相関関係によって明らかになるものであり、パラディグマ(例)としてしかとらえることができないものである。ボーレンは芸術におけるデモーニッシュなものを論じる中で、デモーニッシュなものについて次のように述べている。
 〈偶像〉は、まさしくそこで、この支配者が作る諸関係が、芸術によって栄光化されるところでこそ、有力な働きをしている。ヘッセンの男が描いた絵が明らかにするのは、彼が描く農民の男女は極めて精緻にナチの関心に奉仕するものとなっていたということである。この画家が1944年に「マリゴット」という絵を描いている。ひとりの熱狂的なナチの農夫の女である。左手はがっしりした腰にあてがわれており、右手には覆いのある籠を持っている。自分の農地に立っているのである。来たりつつある勝利に向かい、来たりつつある母親として生きる生活を望み見ているのである―この絵は、しかし当時すでに起こっていた避難民の大きな流れも無視していたし、農地を襲う略奪についても語っていなかったし、当時支配的であった政党の戦い抜こうという標語を正当化しているものであった。そこでも、本当ならば慰めこそふさわしく、プロテストこそふさわしい時代にあって、「きわめて良かった」と言う人もいたということなのである。
 このような芸術が持っている〈デモーニッシュなもの〉はそれなりの善意と無害の姿に見えてくるものである。おそらく、絵描きは善良な男であったであろう。・・・創造の物語において〈美しい〉というのは美そのものを意味するのではなくて、具体的なものが生まれるところにおける〈美しさ〉であるように、デモーニッシュなものは、ただ相関関係においてデモーニッシュなものなのである。「マリゴット」の絵はその時代のコンテキストにおいてはデモーニッシュなものとなり、デモーニッシュな働きをしたのである。国家社会主義とういものが全く過ぎ去ってしまったとするならば、そのような絵はただ心温まるものでしかなかったであろう。
私たちも説教において、このような過ちを犯す可能性が大いにある。時代を無視して、すべてが正しいとしているような態度で、聴衆に何の衝撃も与えないで終わる説教をし続ける可能性がある。続けてこうも語る。
 農民画家の芸術がデモーニッシュになったのは、それが国家社会主義による偽装と欺瞞との助けをしたことによったのである。このような芸術は、悪魔と契約を結んでしまっていた。素朴に悪魔を見損なっていたのであり、まさにそれゆえに、素朴に悪魔を描いて見せながら、自分が何をしているかを知らなかったのである。このような芸術は悪魔を描いた。しかし、その悪魔は、新約聖書によればいかなる時にもこの世の支配者として自己を現すものなのであり、それに属する悪霊たちは、自分の悪霊らしさを、善意をもって装うことに興味を抱いていた。
こういう視座からの検討が必要なのは、信徒が常に世と接してそれによって、信仰を貫くことができるか否かを試されているからである。信徒は常にその戦いの最前線にいる。「毎日そんな事件などはない、毎日は平凡の連続である」と説く説教者もいるが、その平凡な日々の連続の中で、信仰を保つことができるかどうかは、日々、戦いと言って過言ではないだろう。日曜日に礼拝に集うことができるのは、当たり前のことなどではなく、容易ならざることである。そのことを忘れている、否、気がつかずにいる専門的説教者が余りにも多いのではなかろうか。だから、「何も衝撃を与えないで終わる説教をし続ける」という罪をそこで犯すのである。そういう説教者は自分が何をしているか分からずに日曜日を過ごしている。最悪の過ちである。
信仰におけるデモーニッシュなものも観察できる。聖書からもその危険性を知ることができるだろう。
イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカの福音書17章1-10節)
どこに、デモーニッシュなものを見出すだろうか。それは、使徒たちの願いである。主イエスも、そのデモーニッシュなものを取り除こうとして、丁寧に答えて下さった。「私たちの信仰を増して下さい」とは誰もが抱く素朴な願いである。信仰が強く大きくなり、他にも影響を持つことができる立派な信仰!信仰の進展はとても利益をもたらすと考える。しかし、主イエスはその願いにお答えにはならなかった。信仰が強く尊大なものになることより、マスタードの粒のように小さな種を指し示された。これでいい、と。続くしもべの話しも別物ではない。つながっている。しもべは外で働き、帰宅した後も主人の食事を支度してと、大忙しであって、これだけのことをこなすのは相当に立派なしもべである。しかし、これだけ立派なことをしたとしても、「大したことはしていない」と言いなさい、と主は言われる。そして、そもそも話しの発端は「小さい者を躓かせるな」と言う話しから起こっている。信仰が小さくて躓いたからとて、それは仕方がないとさえ言われる。ここでは、大きいこと・増大することよりも、小さいことが大切にされている。
 使徒たちの間でさえ、デモーニッシュな発言が現れる。信仰の進展を、信仰の増大をと願う平凡で素朴な心を装いながら、神を崇めず、信仰の小さい者をゆるせない教会の罪を、主イエスは鋭く見抜いておられるのではないだろうか。
そこで何が美しくなるのか、そこで何が崇められるのかについて検証されなければならない。ボーレンはこれを省略するのは、霊的な怠慢であると指摘している。

D.小さくなって働いている霊の発見
 すべての説教が預言者的であるわけではないだろう。むしろ、説教を聴きに来る人たちの多くは、説教が自分の心に触れ、慰められること、沈んで座り込んでいた自分が立ち上がって再び歩けるようになる―ことを願う。いわば、牧会的な説教・慰められる説教ということであろう。心に届く説教とはどのような言葉なのであろうか。この変化を生み出すのは、第二の黙想の課題である。言い換えれば、自分の心に言葉が入り込んでくる体験であり、言葉と共に霊が入り込んでくる体験でもある。このような「慰め」の説教の調子は、明らかに、伝道集会の迫力満点の襲い掛かってくるような調子のものではないし、教理的かつ教育的と言うわけではなく、預言者的・政治的なものでもない。また、浪浪として福音を宣言すると言うことでもない。そうではなく、身近で、思いやりがあり、ささやかで、切々語りかけるもの―言わば、尊大な霊ではなく、信徒の間で小さくなって働く霊による言葉である。このような言葉の発見に役立つのは、教会がカリスマ共同体であるという認識である。ボーレンによれば、福音書の脇役でそれ(キリスト誕生)以外のところでは役に立たないと思われるヨセフが役立つその時代を切り開く霊の働きである。
カリスマは尊大な力、稀に見る才能、並外れた大きな力・能力が与えられた人、と言う意味で定着し使用されてきた言葉であるが、新約聖書におけるカリスマは決してそのような使われ方をしていない。むしろ、カリスマは教会の徳を高めるために働く神の恵みである。それは、一部の人に与えられている物ではなく、教会全体に、つまり教会員全員に与えられているのである。私にはカリスマが与えられていません、と言える人は誰一人いないのである。他方から言えば、教会とは、個人に与えられたカリスマが見出され、名づけられ、育てられ、力を発揮し、活躍することができるようになる場所である。全体も個人もカリスマをめぐって喜び合えるところである。説教者はそのカリスマを見出し、カリスマに生きることができるように手伝い語るのである。

褒めること
 心しおれている者にとって必要なのは、欠点の改善を理路整然と教えることでもなく、「勇気を出せ」と乱暴に呼ばわることでもない。自信を回復させてあげることである。自信にはふたつある。ひとつは、自分の能力・力に関してである。これは変化する。絶対的なものではない。若い時には力があるが、年をとれば衰える。強い時には自信に溢れるが、弱まれば自信は失われる。これに対して、不変の自信は、神との関わりにおいて、自分が何者であるか、そして、自分は、どのような将来向かっているかが明らかになるときに生まれる自信である。
ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(コリント人への手紙第1 4章5節)
終わりの日に、我々のところに届くのは、神からの称賛である。けなし、冷たい批判、断罪などではない。信者それぞれにおほめの言葉が届く―私たちはその日に向かっている。「だから、私たちはもっと互いに褒めあわなければいけない」と言ったのはボーレン教授である 。衝撃の一言であった。まことにその通りである。教会はもっと単純に褒め合うべきである。
「褒めること」は終わりの日を見つめて練習するのに値するほどのことである。それは、その人の内に働いておられる神を見出すことでもある。それを見つけて互いに喜び、尊んであげるのである。恐らく、罪人の我々にとっては、自然に習得できるようなことではないだろう。概して、牧師はあらゆることに批判的過ぎて、褒めることが下手なのではなかろうか。説教分析がその際たる物であって、長所を聴き取る人は少ない。その人の内で隠れて働いておられる神を見出す修練が必要であろう。そして、その延長として教会共同体におけるカリスマの再発見と言うことが起こりうるのである。だから、まず、「信者の中に働いておられる神を見出し、互いに喜び、尊び、「褒める」修練をする必要があろう。
あなたは何者であるか―アイデンティティの確立
「あなたは何者であるか」―アイデンティティの確立が不十分であると成人になることが出来ないと、心理学者や教育学者たちは指摘する。同じ事が、神の子たちの誕生から成長について言えるだろう。「あなたは何者であるか」、この問いにはっきりと答えることが出来なければ、健やかな成長を遂げることが出来ないであろう。神との関わりにおけるアイデンティティの確立は絶対の自信となる。米国長老教会が作成した子供向けのカテキズムの最初の問いが「あなたは誰であるか」を答えさせるものとなっている。
「誰であるか」と問われて、答えとして思い浮かぶのは「名」である。「名」はそのものであると考えられていた。
バビロンへ連れて行かれた青年たちは、帝国に役立つ人間となるために、彼らの名前を変えられてしまった(ダニエル書1章7節)。イスラエルの神に仕えて生きることを捨てさせられ、バビロンの神々に仕えることに変更させられたことを象徴する出来事である。
宮沢賢治が書いた短編小説『よだかの星』でも同様のことが起こる。皆から嫌われていたよだかは、ある日、鷹に強いられて名前の変更を求められる。皆から嫌われているようなお前が「夜」と「鷹」の両方を名前のうちに持つなどとんでもない、返せ、と言うのである。よだかは思いつめて天高くのぼり、自らの命を断ってしまう。
米国長老教会のカテキズム第1問は、「あなたは誰ですか」に対して、「はい、私は神の子です」と答えさせている。説教の聴き手の心がこの世の様々なことでしおれうなだれている時には、「私は神の子です」と言える自己確立と自信回復が必要である。さらに、神との関わりにおいて「私は○○である」と言えることはひとつだろうか。場合によっては、様々な答えが必要となる。
Naming grace として紹介されている視点が役に立つ。与えられているテキストは、聴き手の自己をどのような恵みによって確立させるのか。隠れて働いている霊を見出し、名づけてあげるのである。

4.説教原稿の作成
A.秘密のうちに行われる説教原稿の作成
説教原稿を書くというのは、およそ、説教準備におけるクライマックスであり、最終段階と言ってよいであろう。今まで吸収してきたことが、実際に語られるべき言葉を目指して集約されていく。ここでも霊は働かれる。しかし、説教原稿の準備の仕方は個人的で、謎のままである。
私たちがよく知っている、竹森満佐一先生の説教は3ポイント説教で、1頁にきちんと整ったアウトラインが出来上がっていたという。加藤先生はメモだという。引用がある場合、正しくそれを書くと言う。私がよく知っている身近な人たちは、全文をまずは説教をするつもりになって書いてみる、と言う人が多い。それから、更にアウトラインを作って講壇に立つ人、そのままで説教に望む人、様々である。それらが整えられていく間では、風呂に入ったり、音楽を聴いたりと、謎に満ちている。しかし、ここでも何かが起こっている。それはそれぞれのベールに隠されているので、私個人の体験を取り扱うしかなさそうである。
原稿を作成する時によく体験するのは、説教塾で一緒に勉強している仲間と、それから教会の聴き手が次々と頭の中に浮かんでくる、ということである。塾生からは「そこの釈義は不十分なのではないか」「そういうふうには、言わないんじゃないか」「それはテキストからずれんるんじゃないか」「その語りは愚痴っぽいだろう」・・・など手厳しい批判があがる。教会の様々な聴き手からは「難しい」「話しが古い」「つまらない」「結局、何がいいたいわけ?」・・・とにかく戒められる。これは、説教者の自虐的傾向がこのようなことを助長しているかもしれないが、説教原稿をまとめる最終段階が近づくと相当に戒められる。正直、追い詰められて、ワープロを打つ手が止まることも頻繁に起こる。けれども、彼らは、私にとって、神から遣わされた善良な聴き手であり、仲間である。悪魔ではない。彼らの追及こそが、私を結局は聖書に追い込んでいく。素直に、彼らの忠告を受け入れることがある。一方、拒否する場合は、彼らの批判に対してそれ相当の反論の根拠がある場合、彼らの意見を退ける。毎度、彼らの追及を受けるのはしんどいことであるが、「正当な反抗者」を持たないと、直ぐに間違った自信に溢れてしまい、自分の主張を繰り返すか、思弁的な論説に落ち込みそうな気がするので、いつも(頭の中で)彼らに同伴してもらっている。こういう反抗者は説教者には必要であると思うことにしている。
B.試練(Tentatio)こそ
説教原稿を書くときに体験することは、聖書テキストに触れてから説教が語られるまでに起こることが、同時多発的にそこで起こると言ってもよいであろう。メラーは、説教準備の過程を「祈り・黙想・試練(Oratio, Meditatio, und Tentatio)という解釈学的循環における〔単数の〕み言葉から複数の〔説教の〕言葉への歩み」と言った。説教原稿の作成という最終段階で、もっとも強い役割を果たすのは「試練」ではなかろうか。試練こそが、今までの学びを神の言葉に仕立て上げるといっても良いのではなかろうか。
〈試練を受けるということTentatio〉は、本来、新しい歩み、第三の歩みと言うわけではない。そうではなくて、解釈者のその人そのものに目を向けさせる。解釈者は、いずれにせよ、聖書テキストをとりあつかい、説教への途上でテキスト共に「あちらこちら走り回る」。解釈者は、解釈をしながら、自分自身をさらしてしまう。決して中立的なファクターに留まらない。解釈者がそこで、自分自身を、時代や教会共同体についての自分の理解を、自分の個人的確信を、解釈の過程に投入し、聖書テキストの異質性、神の言葉を思いのままにすることができないという隠れていた事実によって試練にさらされる時、どのような仕方でそれをするかということによって、説教の内的な生命力、動的な力、「恐れと戦き」が生まれるかどうかが決定されるのである。だからこそルターは、試練を「試金石」と呼んだ。・・・試練というのは、私に向かい合って、神の言葉の方から、私がどれほど汚れた唇を持つ人間であり、汚れた唇の民の中にあるかが(イザヤ6章5節)が開示されるということである。このような試練が私を沈黙させて、かえって癒し、私をありきたりの勉強だけで身についた考え方、政治的、教会政治的、教派的に固定した陣営から一度引き出し、通例の経験的事実を超えて、「世俗的経験と共にする真実の経験」へと至らしめてくれる。そのようにして、試練は、み言葉を待つようにさせてくれる。それは、神が聖書テキストを通じて、今私に語りかけてくださるみ言葉である。その言葉を持って、燃える炭によって触れるように(イザヤ書6章6節)、私の口に触れて下さるみ言葉である。その結果、私がいつも用いているモットーが燃やし尽くされ、私を自分の声ではない声で語る説教者として派遣する。
「神の言葉を思いのままにすることができない」―これこそが試金石である。そこから生まれてくる葛藤・格闘こそが説教の内的生命をもたらす。第1の問いに対するひとつの明確な答えに私は安堵する。聖書テキストの中を私は走り回るが、試練を受けて最終的にはもはや、走り回ることをしなくて良くなるのである。聖書テキストが私を貫き、私のうちで神の言葉が働いていることを体験し、それに気づいて語ればよいのである。また、このような体験は、非常に個別的なものである。
 
5.語られる説教の言葉
何らかの説教原稿が出来上がって、一応の準備が整ったと考えられる。しかし、原稿に認められた言葉と、実際に日曜日の朝に礼拝堂で語られる言葉は異なる。語られ聴かれてこそ初めて説教の言葉となる。ここでも変化が起こるのである。ここに霊の働きを見る人がいる。
例証:エミール・ブルンナー
私が東京神学大学の学生であったとき、スイスの神学者エミール・ブルンナー教授が来日し、私も、その言葉を聴きました。ルターの改革記念の礼拝で、竹森満佐一教授の通訳で、素晴らしい説教をしました。そのブルンナーが自分の説教について方語ったことがあります。きちんと説教の準備をするが、礼拝が始まる前、確か四〇分と言われましたが、聖霊の導きにすべてを委ねると語りました。深い感銘を受けました。私はできるだけ早く礼拝堂に入ります。時に何十分も聖霊の導きを求め沈潜します。教会によっては、礼拝前に、司式、説教、奏楽などの奉仕をする者たちが集まって祈るところがありますが、できれば、それに参加することをも断り、自分だけの祈りの時間を重んじます。
一体、ここで起こっていることは何なのだろうか。よく準備し整えられた原稿には、変更の余地は少ないであろう。むしろ必要なのは、妙に力んだり、緊張しすぎたりすることなく、落ち着いて準備された通りに遂行できる力(集中力、体力)への援助であろう。
 しかし、一方で考えるのは、整えられた説教原稿のことばを思い巡らしながら、30分以上祈りながら鎮まったところで起こる変化である。この段階では、話す内容の変更とか良し悪しという段階ではなく、語られる言葉への確信の変化である。四〇分と言えば、ほぼ説教時間と同じ時間である。アスリートやパフォーマーが、競技や演技の前に集中力を高めつつ、既に完全に用意され、この後直ぐに遂行される競技や演技のイメージをする。その遂行イメージが確かであればあるほど、確実な実施ができるのである。これに似て、説教者が、この後直ぐに語られ始める説教の言葉をイメージのうちにより確固たるものにできれば、説教の目的である神への「信頼」に溢れる言葉になるであろう。この40分間はそのような変化をもたらすのに必要な時間となるであろう。
B.妻または夫、家族に働く聖霊
説教前に鎮まって、不足や間違いに気づいて、説教原稿から変更を加えるということも起こるであろうが、親しい聴き手〈妻または夫、家族〉からの指摘は、語られる説教の言葉に大きな変化を与えるのではなかろうか。これが土曜の晩であることが望ましいが、我が家では第1礼拝と第2礼拝の隙間に起こる。
第1礼拝は朝9:00から行われる、小さな礼拝である。参列者は、説教者の配偶者と第2礼拝に参加できない1,2名の聴衆に限られる。第1礼拝はお試し…というつもりはないが、第1礼拝と第2礼拝の間に、交わされる家族との会話によってどれほど、多くの修正がなされてきたか。説教者の配偶者と家族は、説教を聴き続ける貴重な聴き手である。説教者の生活の裏も表も知り尽くしている聴衆である。そこで、もっとも愛に満ちたかつ厳しく的確な正しい批判を聞く事が出来る。(ただし、説教者が聴こうと思えば、である。)ごく限られた時間(長くても3分)に指摘がなされ、続く礼拝において大きく改善される。
 このような親密な聴衆によって与えられる寸評(brief review)を得る機会があるならば、それは神からの賜物と考えた方がよいのではないか。説教を聴き続け、愛を持って評価を与えてくれる親密な関係がなければ、このような率直な指摘を得ることは出来ない。そして、準備された説教の言葉を変えていくというチャンスを失うのである。説教者に対してだけでなく、聖霊は神の言葉を待ち焦がれている聴衆の中でも同じように働いているのである。説教者の作業は決して孤独なものではないのである。

6.聴かれた説教の言葉
 語られた説教のことば(第六のテキスト)と聴き取られた説教の言葉(第七のテキスト)もまたちがう。物理的には、同じ時間その場に居合わせ、同じ音声を耳にした。しかし、説教者が伝えたかったことと、聴衆の中に残ったこととは同じではない。説教者は「こんなにちがうのか・・・」と愕然とすることさえあるだろう。説教者が伝えたかったことと、聴き取られた言葉の違いについては、「言葉の裏切り」などといわれ、様々に分析されることがあるが、ここでは、その良し悪しやなぜそのことが起こるのか、と言うことは問題にはしない。どんな場合にせよ、説教が語られた後、語られた説教とはちがう、聴かれた言葉が出現し、その言葉が人々の間で働く。その聞き届けられた言葉・第七のテキストの出現に際する霊の働きについて考える。

A.忘れ去られる神の言葉の働き
 1年間で約53回、主の日ごとに語られ、聴き続けられる神の言葉である説教は、どれほど記憶されているだろうか。12月の終わりに今年の説教をどれだけ覚えているか調べてみたとしよう。思い出される説教題も、説教の言葉もごくわずかであろう。説教の言葉は、ほとんど忘れ去られるために、毎週語られているのである。しかし、全くの無駄だというわけではない。記憶されていないからと言って、何の働きもしなかったのではない。その時その場所で、神を礼拝するためにその言葉は働いたのである。
 最近、二人の牧師からほぼ同じ体験を聞いた。ひとりは教会学校における説教の講演会で、ひとりは説教塾の例会の席でのことであるが、二人の共通した意見は「健全な説教の言葉は忘れ去られる」というものである。
1.自分は長い間教会学校で説教を聴き続けてきたが、覚えている言葉というのは、正直言ってほとんどありません。覚えているのは、むしろ(教理的に)おかしなことを言っている、なんかこれはちがうぞ・・・というような体験の方を覚えている。子供ながらに、礼拝で聴く説教と言うのは、こういう話であるということが分かっているわけです。
2.私は、説教者になる前、信徒としてとても長い説教聴聞の体験をしてきました。けれども、説教の言葉というのは、ほとんど覚えていないです。むしろ、記憶に残っているのは、変な説教のほうであって、他の説教の言葉はほとんど記憶に残っていないです。説教と言うのは、そこで礼拝をするためにのものであって・・・。
確かに、説教の言葉は忘れ去られるのである。しかし、その言葉が聴かれた時に神を礼拝させ、そこで生きて働いたのである。説教は、礼拝の全領域に光を投ずる中心点として働き、その言葉が極めて奇妙で逸脱したものでない限りは、たとえ忘れ去られようとも、その場で神を礼拝するために働いたのである。

B.記憶に残る神の言葉の働き
 これに対して、説教を聴いて、忘れ去られることなく記憶される言葉がある。もちろん。説教全体が記憶されるわけではない。説教分析をするならば、説教の頂点に達したところで語られる使信・メッセージの集中表現であり、「神の名による言葉」に分類される言葉である。聴き手からすれば、それが自分の心に触れたからである。そして、それがいつまでも聴き手の中に留まって、その人の生活の中で働きかけるということが起こる。礼拝空間とはちがう別の場所で働くためには、その言葉が聴き手によって「記録」なり「暗記」されない限りは無理である。
 言葉が記憶に残るのは、第一のテキストの局面と共通である。自分と関わりがあったからこそ留まった。神の言葉が留まるのは霊の働きによる。そして、神の言葉は記憶されて、その人の内に留まって働き、持ち運ばれ、再び語られ、拡散し、別な人に伝達される。内住する霊のごとく、聴かれた説教の言葉(第七のテキスト)がその人のうちに宿るのである。記憶されることの利点は強調しすぎることはないであろう。しかし、暗記が得意な人ばかりではない。能力と直結しがちな暗記であるが、膨大な量の情報を覚えることが要求されているのではないということ、また、覚えるのに難義するような言葉の暗記を聖霊が求めているのではない。誰もが持ち運ぶことが出来るような共感できる身近な言葉になっているのが第七のテキストの特徴である。

C. 例証:「おきなさい、さゆり、よみがえりのあさだよ」
 2013年8月鎌倉雪ノ下教会で加藤さゆり師の葬儀が営まれた。司式をした牧師をはじめ、教会の長老、かつて交流をもった多くの信徒から慰めに満ちた言葉が語られた。その中で、最愛の妻との別れを迎えなければならなくなった夫・加藤師と遺族、葬儀に参列した者たちを大いに慰めたのは、メラー教授からの弔辞であった。
 愛する加藤さん! 悲しい知らせです。あなたは書いて来られました。妻が土曜日、午前10時、眠りに就いたこと。長い舌癌、そしてリンパ腺癌の病苦は終わりました。神さまが眠らせてくださいました。神が御定めになったとき、再びみ手に取られて、こう呼びかけて下さるためです。「起きなさい、さゆり、甦りの朝だよ!」と。
 だがしかし、あなたには無限につらいことですね。もはや、さゆりがあの静かな仕方で、あなたの傍らにいないことは。もはや、あなたと共に祈ってくれないことは。あなたをひとりぼっちに遺して逝ってしまったことは。長く共に生きました。一緒にいて幸せでした。喪失の悲しみは肉体に食い込み、何よりも心に食い込みます。
 あなたに神の慰めが降ってきてくださいますように。あなたの血を流すような苦しみを癒してくださるために来てくださいますように。多くの、本当に多くの仲間のキリスト者が、木曜日にはあなたを囲むでしょう。その先頭にお子さんたちが、お孫さんたちがいますね。キリストの甦りのメッセージがあなたを捉え、この厳しい時に、励ましてくださいますように。
 あなたのことを思っています。あなたと一緒に祈っています。こころから挨拶を送ります。
あなたの クリスティアン・メラー
この文章は、説教ではない。葬儀の場で朗読された弔文であった。遺族と親しい交友があったハイデルベルク大学の元教授が書き送ったものである。しかし、この中には、聖書に立脚した言葉、ひとりの遺族と対話する言葉、そして多くの人の記憶に残る神の名による言葉として聴かれる言葉がある。それは、各地でリフレインされた言葉「おきなさい、さゆり、よみがえりのあさだよ!」である。
分析
共感(魂への配慮に満ちた言葉)
この文章はシンパシーに満ちている。妻を失った喪失の悲しみを「あなたにとって無限に辛い」とした上で、「あの静かな仕方で、あなたの傍らにいないこと」「もはや、あなたと共に祈ってくれないこと」と、具体的に描く。友人の妻としての故人を知っていたからこそ生まれてくる言葉である。その妻を失った友人に痛みを想像することが出来るからこそ生まれてくる言葉である。このような、付き合い・関係がないところ、このような描写もまたありえない。聖霊はこのような友情の形成の中に働いておられる。この辛い体験を捉えることこそ共感の根源である。この辛さを真に受け止めて初めて何かが始まる。私たちは実に多く、この事をし損なう。他の多くの弔辞でも、確かに「神の慰めがありますように」語られと祈られていた。しかし、多くの弔辞では、ここまで具体的に悲しみの描写をしないのである。
 我々が、悲しみの極限で、具体的な悲しみの描写をしないのは、文化的な違いもあるかもしれない。日本人には、悲しみの席では、悲しみを紙で包むように覆うのが礼儀正しいことだと思える。他方では、そんな悲しみを受け止めきれないという不安と恐れがあるからでもある。だから、それを赤裸々にはしない。しかし、隠しても、死別の悲しみと痛みがそこにあるのは現実である。それをどう取り扱うのか。共にするのか、通り過ぎるのか、覆い隠すのか―メラーは「喪失の悲しみは肉体に食い込み、何よりも心に食い込みます」と言い切った。遺族の悲しみを受け止め、共にするためである。
望み(教理的な詩的表現)
 肉と心に深く食い込む悲しみを一緒に引き受けよう、と決断できるのは、そのような方を知っているからである。主イエスがそのようにしてくださったからである。それを知っているのが、キリスト者である。だから、私たちもそのようにするのである。また、復活を信じているからこそ、その望みに生きることが出来るのである。この弔辞において、よみがえりの望みを語る言葉は、きわめて教理的かつ詩的な表現となった。死は「眠りに就いた」ことであり、「長い舌癌、そしてリンパ腺癌の病苦を終わり」であり、「神さまが眠らせてくださった」。そして、終わりの日に起こることをこのように語る、「神が御定めになったとき、再びみ手に取られて、こう呼びかけて下さるためです。『起きなさい、さゆり、甦りの朝だよ!』」
 ひとりの人の死と復活が決して抽象化されない。だから力を持つ。舌癌で苦しみ、リンパ腺癌で苦しんだことが分かる。そして、それも終わったと語りなおされる。また、甦るために、神のご意志によって眠りについたと語りなおされる。極めて教理的な道筋を保っている。そして、ひとりの人の名前までが挿入されて終わりの日に起こることが、非常に詩的な言葉で表現されている。「起きなさい、さゆり、甦りの朝だよ!」と。説教分析ならば、神の名による言葉に分類する言葉である。この復活を語る教理的かつ詩的な文は、日本語では4語と非常に短い。だから、直ぐに覚えてしまい、自分の中にしまって持ち帰ることが出来る。一度記憶して自分のものとなってしまえば、取り出すのも簡単である。「終わりの日には天使の頭の号令と共に多くの死人がよみがえるのである」。というテキストよりは、「おきなさい、さゆり、よみがえりのあさだよ」という言葉の方がはるかに取り出しやすい。昔から、教理の言葉は詩歌となった 。その通りのことがここでも起こっている。

D.聴き手の中に残る言葉
 メラー先生の弔文で最も研ぎ澄まされて、聴衆の中に残ったのは「おきなさい、さゆり、よみがえりのあさだよ」であろう。この弔文は説教塾のメーリングリストでも紹介されて、多くの牧師たちの心を動かして、それぞれの説教に影響したようである。それを紹介している人もいた。
 弔文のメッセージというのは、どれも決まっている。「神からの慰めがあるように」ということに尽きる。しかし言葉は様々である。メラー先生の弔辞では、非常に教理的な復活という枠組みを持った詩的なことば「起きなさい、さゆり、甦りの朝だよ」という言葉によって神さまの慰めが出来事となった。
 私たち・キリストを信じるすべての者は、このような言葉を語りだせないだろうか。長くなくてよいのである。難しくなくて良いのである。実際、メラー先生の弔辞はさほどの長さではない。しかし、時を生かして、機会に適えば、ひとりの人にもっともふさわしい救いの言葉を語ることができるという素晴らしい実例である。メラー教授のこの言葉も、主の日の説教ではなかった。信徒が、神の言葉を語る場は日曜日の説教卓だけに限らない。日曜日に説教卓で語られる言葉も変わりなく大切である。しかし、これと同じように、今、重要視されなければならないのは、聴き取られた神の言葉〈第七のテキスト〉が信じる者たちの口によって、至るところで語りだされることである。家族との会話で、待合室で、友人とのおしゃべりの中で・・・この働きは霊の注ぎを受けた者がすべてなせる業なのである。決して特別なこと、自分とかけ離れた業ではない。自分が共感したこと、自分が体験したこと、自分が受けた恵みの言葉を素朴に語るだけである。自然な語りが神の言葉として用いられるのである。要となるのは、共感シンパシーである。
また、こんなことも想像する。自分が夫を失った時に、このような慰めの言葉をかけてくれる人があるだろうか、と。メラー先生のこの弔辞を読み返すことはできるであろう。また、learn by heartされた言葉が甦って自分を慰めるかもしれない。しかし、それはこの私個人に与えられた体験ではないので、私に対して同じようには働くわけではないだろう。夫を失ったその時の私に必要なのは、慰めの言葉と同時に、この言葉を与えてくれる人なのである。聖霊は言葉と共に人と人との関係性の中に著しく働く。言葉とその言葉の授与者は切っても切れない関係にあり、聖霊は言葉と人に著しく働きかけておられるのである。

暫定的な結び

 あちらこちらを歩きながら、聖霊論的に思索をしてきたつもりだが、どうしても、語調がはっきりしない。つまり、これはひとつの論文として体裁を整えるつもりであったわけが、「○○である」と断言することができないのである。論文なのだから、根拠にうすく「こうなのだろうか」では説得力を欠き、悪くすれば問題提起だけで終わってしまう。あれこれ書いてはみたものの、どうもその域を脱していない、と言う気がしてならない。
 しかし、聖霊論的な思索というのは、このように開かれた問いとして延々と続けられるものなのかもしれない。神の霊についての思索であるから、神を求めることに終りがないように、この思索も続くのであろう。暫定的な結論もまたこれと並行して現れる。
第1の問い「私の語る言葉がどうして神の言葉となるのか」について。第1のテキストから第七のテキストへ至る過程を辿りながら、霊が私にどのように働きかけ、神の言葉が混じり込む可能性があるかを、具体的な例を挙げながら思索した。人間が用意するすべての言葉は、人間が神の言葉を思いのままにすることが出来ないという事実によって試練を受けなければならない。自分が持っていたすべての知識、判断、確信が灰と化す体験の後、これらの言葉に内的ないのちが与えられる(イザヤ書6章5‐8節)。これが第1の問いに対するひとつの答えである。また、見分けがつかないほど密な外からの働きかけによって自分の言葉がいのちを宿すものにされるのである。
付随して、第2の問いについても答えを得る。説教が神の言葉として聴かれるために必要なのは、試練から生まれる格闘であって、教職者と信徒との隔てではない。いのちを与える御霊は、必ず、信じる者たちのありとあらゆる場面で、いのちの継承のために言葉を語らせる。格闘しつつ、聖霊の助けを随所に見出すとき、確信をもって神の言葉を語ることが出来るようになる。

あとがき

 宗教改革500年、説教塾30周年という節目の年にあたって、論文を書き発表する機会が与えられたことを感謝しています。「シンポジウムを塾生の発表で満たすように」というのは、加藤先生からの提言でした。発案された当初(3年前になるでしょうか)、私もその場にいたのですが、とても単純に、たくさんの人が発表するものと思っていました。けれども、実際にシンポジウムが近づいた頃に知ったことは、発表者の数は私が想定していたものよりずっと少ないということでした。私もやめようかと思いましたが、宗教改革500年、説教塾30年という、またとないカイロスなので、やり遂げることにしました。教会ではなく、別の働きで糧を得ている私にとっては、時間制限があり辛い日々もありました。それでも、ひとたび取り組み始めると尽きぬ興味が沸き、また外での労働が役に立っていると思うこともありました。私たちがまだ罪人だった時に死んで下さった方を指し示す霊もまた、教会の外でも働いているということを信じることができました。私がこの文章を集中して書くことができるように、ある期間、好意的に有給休暇を与えてくれた店長のAさんに限りない感謝を致します。彼女は、信者でも求道者でもありませんが、教会の仕事に協力くれたのです。また、家族の諸々の手厚い配慮と協力、アドバイスを感謝します。